若者の暴力について

 

適切な幼児教育は後の
人間形成において大変重
要であると考えています
が注意していただきたい
ことがあります。
幼児教育は完璧な育児や
教育を推奨するものでは
ないということです。


 ・愛情が第一を忘れない
 ・他の子どもと比較をしない
 ・完璧主義にならない
 ・結果を期待しすぎない
 ・ゆったりとした心を持つ
 子どもへの過剰な期待は
 親子共に大きなストレス
 になる可能性があります。
 ゆったりと構え、少しくら
 い上手くいかなくても
 「まぁ、いっか。」
 位に考えられることが幼
 児教育を続けられるポイ
 ントになります。 

若者の暴力について はやし浩司先生の「その他」の問題・悩みQ&A

はやし浩司先生●【掲示板への書き込み記事より】



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20歳の男性から、
こんな書き込み記事がありました。

若者の暴力について、です。

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【20男さんより、林へ】

はじめまして。 掲示板には名前は書かないほうがいいので、ここでは、「20歳男」と名乗りま
す。

相談と言ったらいいのか、伝えたい事と、質問したい事があります。

最近の若者はよくキレると言われ、実際その通りだと思います。では昔はどうだったのだろう
か?、と言う質問です。

また、人を殴ったりしても罪悪感を覚えない若者には、外見上の共通項があるのか。あるとし
たらどんな姿か、ご存知でしょうか。

自分は男の20歳で、(年齢的には、もっと下に見えるそうですが)、
癖毛で長髪、運動する時など、紐で後ろに縛ります。身長163cm程。
少なくとも現代の若者からすると、髪型が笑われます。(自分もついこの前まで高校生でし
た。)

しかし、顔の造詣自体は、目付きが鋭く、オタクの様に気持ち悪がられるより前に、暴力沙汰
に近そうと、怖がられる事もあります。

若者自身がカッコイイと思っている髪形は、スポーツ刈り、普通の短髪、ジェルで短髪を逆立て
たものなどがあります。

こちらが歩いているだけで殴りかかってくるのは上記の、ジェルで短髪を逆立てた小奇麗な外
見の若者です。また殴られはしないものの、このタイプの男は、学校でも乱暴だったような記憶
があります

しかし自分はそういう、若者同士から好評価を得られる髪形ではなく、癖毛で長髪で、ただ伸
ばしているだけです。長髪を紐で後ろに縛っています。

その自分の風貌が目に付いたのでしょう。先日健康のために公園を走っていると、笑われな
がら、缶を投げつけられたり、殴られたりと言う事がありました。被害届を出しました

年代が上の方には分りづらいかもしれませんが、自分のただ伸ばしているだけの長髪は、年
代が上の方には不良、あるいはカッコ良い、音楽をやっている人間と見られる事があります。

しかし今の若者からすると、それはカッコ良い髪型と言う訳でもなく、攻撃の対象(暴力沙汰の
対象)になる事もあります

自分には、男としての魅力だとかは余り無いのでしょうし、それが殴りやすかったり、絡まれや
すかったりする原因なのだと思います。

自分に絡んでくる若者は雄であり、恐らく若い女性だったら、自分が殴られるのを目撃しても、
止めようとはせず、通り過ぎていくことでしょう。(その女性が高校生だとしたら、通報してくれた
りする姿が、自分には、想像できません)。

性的に、どういう人間が魅力的なのかという基準について、どうこう言いたいのではなく、外見
の良し悪しの基準が、ひとつの原因となって、人に襲われるという事もあるということです。

その基準は全ての人間に共通というわけではなく、若者同士の間でだけかけられる見方なの
だと思います。キレた小奇麗な若者は、年代が上の人が見れば、普通の明るい少年に見える
かもしれません。

若者は2極化しています。誰かを殴りながら、その人を、ゴミの様に扱うのもいます。では昔は
どうだったのだろう?、と疑問に思い、こうして、聞きたくなりました。

昔は今よりもマトモな時代だったのでしょうか?

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 この青年は、今、他人から受ける暴力について、悩んでいる。公園の中を走っているだけで、
笑われたり、缶を投げつけられたりすることもあるという。殴りかかられたこともある。

 そこでこの青年は、その原因として、自分の風貌(ふうぼう)ではないかと書いている。そして
同時に、そういう暴力行為をする人間には、一定の共通点があるかどうかと、私に聞いてきて
いる。

 一見、淡々と自分のことを書いているが、その青年の立場に立って考えてみると、これはた
いへん深刻な問題と言ってよい。へたをすれば、その青年は、人間不信から、自暴自棄に陥
(おちい)ってしまうかもしれない。その青年の置かれた環境は、あまりよくないらしい。それは
よくわかるが、そういう環境しか知らず、その中でもがいている、その青年は、かわいそうです
ら、ある。

 が、決して同情しているのではない。むしろ私は、そういう環境をよいことに、その青年を、理
由もなく、笑ったり、缶を投げつける連中が、心底、許せない。なぜそんなことをするのかという
ことを聞く前に、私でも、そういう連中を、叩きのめしたい衝動にかられる。暴力には暴力という
考え方は正しくないが、しかし暴力でしか、そういう連中に、自分の非を認めさせる方法はない
のではないか。

 そう、弱いものいじめほど、卑怯なものはない。ただこれだけは、覚えておくとよい。人は、い
じめられれば、いじめられるほど、何が大切で、何がそうでないかを知る。一方、いじめる側の
人間は、ますます人生の真理から遠ざかり、遠い、遠い、回り道をすることになる。つまらない
人生を送ることになる。時間を無駄にすることになる。

 気がついたときには、人生も終わっている……。そうなる可能性はたいへん高い。

 だから、そういう連中は、反対に、笑ってやればよい。心底、軽蔑してやればよい。しかしそ
れには、ひとつ、条件がある。そういう連中を笑えるほどまでに、自分自身を高めなければなら
ない。それをしないと、自分自身も、結局は、ズルズルと、そういう連中の仲間に引きずりこま
れてしまう。

 愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまうということは、この
世界ではよくある。つまり批判したり、嫌ったりするだけでは、問題は、解決しない。

 が、自分を高めれば、やがてそういう連中が、餌を求める山猿に見えてくる。ゴミをあさる、カ
ラスに見えてくる。そういう形で、そういう連中と決別する。そういう自分と決別する。同時に、そ
ういう環境と、決別する。

 それがその青年には、できるだろうか?

【はやし浩司より、20歳男さんへ】

 私の時代にも、暴力事件は、ありました。今よりも、もっと多かったかもしれません。しかし1
対1の関係というよりは、集団対集団という関係のほうが多かったように思います。

 ある高校の連中が、突然、となりの学校へ押し入って、そこで相手の連中と殴りあうというよ
うな暴力行為です。また私が入った高校では、上級生が、下級生を暴力でしごくというようなこ
とが、慣例として、なされていました。

 先生たちは、見て見ぬふりをしていたのではなかったのかと、今にして思うと、そういう感じが
します。そのほうが、学校としては、都合がよかったからです。生徒が、先生に対して、おとなし
くなり、従順になるからです。

 そういう意味では、昔の暴力の方が、わかりやすかったかもしれません。まだ戦後のドサクサ
が残っているような時代でしたから……。

 しかしあなたの今、置かれている環境は、ふつうではないですね。心がすさんでいるという
か、殺伐(さつばつ)としているというか……。まるで暴力映画を、地でいくような世界のような感
じがします。

 で、私が今、アドバイスできることと言えば、できるだけそういう世界とは、早く、縁を切りなさ
いということ。でないと、あなた自身も、そういう世界に巻き込まれてしまう。その危険性は、た
いへん高いです。

 何か、自分を高める方法はありませんか? 目標はありませんか? 夢や希望は、ありませ
んか? もしあれば、そういうものに向かって、今は、まっしぐらに進むべきときです。そういう
連中にかかわりあっている暇は、ないはずです。

 はっきり言えば、キレる子どもに定型は、ありません。もちろん髪型で区別するということは、
できません。しかし心がゆがんだ子どもには、共通の症状、つまり俗に言う、ツッパリ症候群と
いうのはあります。独特の歩き方、すさんだ目つき、拒否的態度などなど。

 しかし彼らとて、精一杯、そういう形で、自分の(顔)をもとうとしているのですね。何もとりえが
ないものだから、暴力で訴えることによって、自分の存在感を作ろうとしている。そういう点で
は、あわれな人たちです。あなたから見て、目立つ髪形をするのも、その存在感をアピールす
るためのものと考えてよいです。

 今のあなたに、そういう人たちを、かわいそうと思うだけの余裕はないかもしれません。しかし
あなたが、自分を高めれば、いつかすぐ、そういう目で、そういう人たちを見ることができるよう
になります。あるいは相手にしなくなる。

 私は、少し前、T氏という男性と、2時間ほど、あることで話しあいました。T氏というのは、多
分、明日(15日)、ワールドカップ代表選手として、選ばれる人です。その男性と話しているとき
のこと。私は、その途中で、何度も、その男性のもつ人格の完成度に驚きました。

 「この人は、私より、30歳近くも若いのに、何という完成度!」と。

 T氏は、昨年のアジアカップ杯では、初戦から、最後の北京でのあの優勝戦まで、ずっと活躍
した人です。つまりそこにいたるプロセス、そして幾多の国際試合が、T氏をして、そういうT氏
にしたのですね。

 別れるとき、「すばらしい人生を歩んでおられますね」と声をかけると、T氏は、はにかみなが
ら、「ぼくには、スポーツ(サッカー)しかできませんから」と笑っていました。しかしひとつのこと
をやりとげた人というのは、そういう人を言うのですね。

 20歳という年齢は、すばらしい年齢ですよ。その上、あなたは若いのに、すでに自分を静か
に見つめる目をもっている。今の若い人たちには、なかなかない(目)です。それを信じて、そ
れがたとえかなわぬ夢であっても、あなたはあなたで、ただひたすら前に進む。進むことに、意
味があるのです。

 結果があっても、なくても、です。あるいは結果は、必ず、あとからついてくる。

 私はよく「山登り」という言葉を使います。あなたはあなたで、どんな小さな山でもよいから、登
ってみる。そうするとですね、不思議なことに、意外と、視野が広い。「あんな低い山……」と思
って登ってみても、実際に登ってみると、遠くに、太平洋や、富士山が見えたりして……。

 そしてそれまで自分がいたところが、驚くほど低いところにあったのがわかる。山登りという
のは、そういうものです。

 ここに書いたT氏にしてみれば、この日本中が、足元の小さなゴミのように見えるかもしれま
せん。ひょっとしたら、日本の総理大臣すらも、足元でうごめく、小さな人間に見えるかもしれな
い。そういう人を、人格の完成度の高い人といいます。

 でね、私はそのT氏と別れたあと、こう思いました。「いったい、自分は、この50年間、何をし
てきたのだろう」と。自分という人間が、どこまでも、つまらない人間に見えてきたからです。何
かをしてきたつもりなのに、その何かが、何も残っていない……。それに気がつくのが、私のば
あい、30年、遅かった!

 しかし今のあなたなら、それができる。こう言うのは自分の敗北を認めるようでつらいです
が、あなたがうらやましい! 私があなたの年齢のときには、私の心の目は、盲目だった。た
だがむしゃらに、人を蹴飛ばしながら、生きていた。

 自分のことしか考えていなかった。自分の利益しか考えていなかった。私は、そういう意味で
は、盲目でした。人の心が、まるで見えなかった。

 だから何も残っていないのです。が、あなたは、盲目ではない。自分につけられた心のキズを
通して、相手の心を冷静に見ようとしている。これはとても、すばらしいことなのですね。

 さあ、あなたも勇気を出して、一歩、前に進んでみよう。前に山があれば、その山に登ってみ
よう。それができたとき、今のあなたがかかえる問題は、自然消滅の形で、あなたの前から消
えているはずです。

 笑われても、缶を投げつけられても、また殴られても、……いや、あなたがどんな小さな山で
もよい、その山に登れば、だれもあなたに対して、もう、それができなくなりますよ。

 「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブンソンは、
こう書き残しています。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい言葉で
すね。今のあなたにあげたい言葉です。

 どうか、がんばってください!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 青年
の悩み いじめ 暴力)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ヒトシ君(いじめ問題の陰で)

 ヒトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめられ
ていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされて
も、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 

 そのヒトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒトシ君の祖母から聞い
た話だ。

 祖父はヒトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とヒトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。

帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒトシ君は、「高校に合格しま
すようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように
祈らなかったか」と。そこでヒトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。

 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒトシ君(実名)」で呼ぶようになった。
とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒトシ君のような子
どももいる。

 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しっかりと
判断する。愚かな人ばかりではない。

ヒトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高校を卒業したあと、東京のK大学
へと進んでいる。ヒトシ君は、見るからに人格が違っていた。

 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。

つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐える。そうでないと、子どもがひ弱になってしまう。
今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。

しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。

親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているん
だよ」と励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、
親や教師にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、親や教師の
務めではないかと、私は思う。


●子どもの問題・・・子どもに関する問題 ●親子の問題・・・親子に関する問題
●家庭の問題・・・夫婦家族に関する問題 ●その他・・・その他の問題


情報・画像の出展:はやし浩司先生

※このページの文章・及び画像の著作権は「はやし浩司」様が保有しています。
当サイトでは「はやし浩司」様のご厚意により許可を得て掲載させていただいております。


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