教育の平等性について

 

適切な幼児教育は後の
人間形成において大変重
要であると考えています
が注意していただきたい
ことがあります。
幼児教育は完璧な育児や
教育を推奨するものでは
ないということです。


 ・愛情が第一を忘れない
 ・他の子どもと比較をしない
 ・完璧主義にならない
 ・結果を期待しすぎない
 ・ゆったりとした心を持つ
 子どもへの過剰な期待は
 親子共に大きなストレス
 になる可能性があります。
 ゆったりと構え、少しくら
 い上手くいかなくても
 「まぁ、いっか。」
 位に考えられることが幼
 児教育を続けられるポイ
 ントになります。 

教育の平等性について はやし浩司先生の「その他」の問題・悩みQ&A

はやし浩司先生●【平等とは

……】

●アメリカの実情
 
 SKさん(二児の母親)から、こんなメールをもらった。改めて、「平等とは何か?」、それを考
えさせられた。

++++++++++++++++++++

日本の学校、アメリカの学校。自由と平等。いろいろとらえ方があって、
どっちがいいって簡単にはいえないことだと思います。どちらもにも
利点、不利点があるでしょうから。

私は小学3年から中学2年までアメリカはN州で
生活しました。英語ができない状態で、現地校に放りこままれ、
たくましく大きくなりました。中2で帰国する時には、日本語が
あやしくなっていました。(言語発たちの、大事な時期ですね。)

当時はレーガン大統領の時代。アメリカがいろんな意味でキラキラ
していて、夢があった頃だと思います。でも、経済的に苦しくなり
つつあって、教育費は年々カットされました。先生方がしょっちゅう
授業をボイコットをしていたのを覚えています。

先生のお話にもあったように、あちらでは、町が変われば学校の
あり方が違う。PTAが多くの権限をもち、あらゆる教育内容に
発言するんですよね。

5年間の生活で、最初の2年間を過ごした町では、あまり教育熱心な
町ではなく、ブルーカラーの人、アイリッシュがとても多いところでした。
そちらの町では、学校の予算が削られて、小学校は3年生でおわり、
4、5、6、7が middle school、8学年以降が high schoolあつかいでした。

で、途中で引越、残りの3年を過ごした町はとても教育熱心な町でした。
このRMという町には、6年生以降、8年生まで学校生活を経験
しました。

7年生からは、あらゆる科目が5段階にレベル分けをされていました。
ホームルームは一緒でも、時間割はみな、ちがっています。習う科目と
レベルが、みな、違うんです。

で、全教科レベルが高いところで学習している生徒は、目の前に
「飛び級」がちらついてくる。一番下のところに降ろされている子は
「ドロップアウト」が見えてくる。

どのクラスも、要求されている学習レベルが明確だから、「ドロップアウト」
するべき瞬間が誰の目にも明らかなんですよね。子どもにとっても。
「進級する」のも同じ。

同じ学年で、同じ English教材で学習をしていても、トップレベルのクラスで
扱う新出単語が30個ならば、下のレベルでは、20個だったりするわけです。

私が過ごしていた町では、トップレベルのクラスに入っている子たちは
特別なクラブ活動に参加していました。 Enrichmentと呼ばれたり、
Class for the gifted and talented という名称がつけられていたりしました。

こうやって、エリート意識を、小中学生の頃から植えつけて、切磋琢磨させて
いるんです。毎朝、1時間早めにきて、ディベイト、学校新聞作り、
株と経営、地元学校対抗クイズ大会の練習など、するのです。

で、これらの活動に参加しているお子さんたち、たいていのご父兄が
PTAに中心的に活動していて、学習内容、学習レベルを細かに
チェックしているのです。ご父兄も、お医者さんやら弁護士さんやら
いわゆる「エリート」のお仕事に従事されている方ばかりです。

アメリカの、そういうPTAで幅を利かせている方々というのは、
先生を巻きこんで、自分の子どもたちが、もっともいい教育が受けられる
道を歩めるようにアクションを起こしていくんですよね。

飛び級しかり、Enrichment のような活動しかり。(これはどの町の
学校にもあるシステムだと思います。規模の大小、ありますが。)

大学進学に必要なSAT(Scholastic Assessment Test、
アメリカ大学学部課程への入学適性を審査する学力診断テスト)、
あれも、何度も受ければハイスコアが確実に
見えてくるシステムのテストです。Enrichmentの活動に参加している子たちは
中学2のときから毎年のようにSATを受ける権利がもらえているのです。
そうなれば最終的にハイスコアを提出しやすいですよね。

私も、全教科、トップレベルのクラスにいれてもらっていたので、
Enrichment を通して、たくさんの面白い経験をさせてもらいました。
(校外学習など、いろんなプログラムが準備されているのです。)
私の場合は「英語が第二言語である」というところが、giftedであると
理解されていたようです。

アメリカでは喜んでドロップアウトする。ドロップアウトを受け入れる
授業編成とカリキュラムが組まれているからだと私は理解しています。
でも、もし Enrichmentのようなプログラムからはずされるとなると、
半狂乱になる親はいたと思います。とくに一度英才教育をうけた子どもたち
には、とても酷なことでしょう。

よく私の母がつぶやいていました。「個々人の能力に応じた教育の機会を
与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ感じさせないように
して、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等。」

どっちが、平等なんでしょうか? 

日本でいうところの、「コース」っていうのは、一体何ものなんでしょう。
人々が過去に歩いて作った道、のことですよね。昔からある道に
安心しているから、その上を歩くんですよね。疑いもしないで……。

学校の先生さまにお任せして、文科省のてがける教科書さえこなして
いればいい、っていう、日本の親の、甘えがあるんですよね。
日本の親は、学校現場に参加していかない。むしろ、「学校に任せて
おけばいい」と、子どもの教育を放棄していく。だから、突然の「ドロップアウト」
宣言に、半狂乱になるんだと思うんですよね。

もちろん、本当は、突然ではないのでしょうけれど。なんとなく先生と
学校と教科書(文科省)にお任せしているから、突然の通たちに
「反応」できないんですよね。

アメリカのように学校、教科書に信頼がないから、PTAが決めていく。
だからフリースクールが増えていく。そうなると団体行動、社会活動を
学ぶ機会は、ここで大幅に縮小していきます。そういう意味では、
アメリカの学校現場が、健全かどうかというのも疑わしいと思うんです。

コースから外れることへの不安。その不安が、子どもたちの学習内容に
つながっていくエネルギーに代わっていくといいと思います。学習内容
3割削減後、すこし振り子が戻ってきたように。

親と子ども、子どもと学校、先生と子ども、先生と親。
もっと信頼関係のパイプが太く、安心できるものになりますように。

++++++++++++++++++++

【SKさんへ……】

●日本とアメリカ

 去年、アメリカのS州立大学(アーカンソー州)へ行ったときのこと。何とそこには、15歳の大
学生がいました。

 アメリカでは、そこまでできるのですね。アメリカでは、珍しいことではありません。

 が、当の教授や学生たちは、みな、「かわいそうだ」と。

 その15歳の少年は、大学にはいるものの、友だちができないからだそうです。もちろん勉強
するだけの、学生生活(?)。一人の大学生は、こう言いました。「それぞれの年齢で、もっとふ
さわしいことを楽しむべきだ」と。

 いろいろ意見は、あるようです。

 そうそうもう一人、その大学で講師をしている人の息子(12歳)ですが、学校へは行かず、自
宅で、父親と勉強している子どももいました。住所と名前を教えてもらったので、一度会いたい
と連絡をしたのですが、たがいに時間がとれなくて、そのまま私は、日本へ帰ってきてしまいま
した。

 それについても、一人の大学生は、「かわいそうだ」と言いました。

 アメリカでは、学校へ行かず、自宅で勉強できるホームスクール制度というのが、発達してい
ます。開拓時代からの名残というか、伝統というか……。もともと広大な国なものですから、「学
校」に対する考え方や概念も、日本とは、かなりちがうようですね。

 現在、推定で、ホームスクーラーの数は、200万人を超えたとされています。いろいろと事情
があって、そういう制度が発達したのでしょうが、その子どもについて、「子どもの意思を無視し
てまで、学校へ行かせないというのは、かわいそうだ」と。

 STさんが、ご指摘の「平等」についての考え方には、正直言って、少なからず、ショックを受
けました。

 「個々人の能力に応じた教育の機会を与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ
感じさせないようにして、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等」という部分で
す。

 もともと日本とアメリカとでは、教育の視点がちがうようですね。日本では、「国あっての民。そ
のための教育」と考えるようです。

 一方、アメリカでは、あの開拓時代から、教育(子どものための学校)は、自分たちが作るの
だというふうに考えるようです。「民あっての、教育であり、国」という考え方なのではないでしょ
うか。

 さらにこの日本では、明治時代以後、いわゆる『従順でもの言わぬ民』づくりが、教育の基本
であったことも事実です。もちろん教育は、だれの目にも必要だったし、日本の社会を変えると
いう意味では、重要な機能を果たしました。

 (最近になって、「現在の日本の繁栄は、そうした明治時代の人たちが築いた基礎があった
からだ」と主張する人がいます。しかしその途中で、日本全土が、空襲で焼け野原になったこと
も、忘れてはなりません。

 そういう人たちは、敗戦直後、日本が焼け野原になったときは、何と言っていたのでしょうか。
日本人は、いつも結果だけをみて、過去を判断します。仏教というより、チベット密教的な宗教
観が、根底にあるからではないかと思っています。)

 だから日本では、教育は、いつも、国(上)から与えられるもの、一方、アメリカでは、教育
は、いつも、民(民衆)のほうから作りあげていくものと考えるようです。しかしこのちがいは、大
きいですね。

 私も、アメリカでは、ごくふつうの公立小学校が、勝手に、入学学年と卒業学年を定めている
のを知り、驚きました。「うちは満4歳児から入学させ、小学3年生で卒業させる」と、です。「州
政府から、指導はないのですか」と、私が聞くと、「一応、学習6領域についての指導はある。し
かしその基準は、きわめてゆるやかなものだ」(P小学校校長)とのこと。

 知れば知るほど、ウーンと、考えさせられることばかりです。

 話は変りますが、意識というのは、そういうものなのですね。日本で生まれ、日本で育つと、
いつの間にか、教育とは、学校とは、そういうものだと教えこまれてしまう。そして、その上で、
意識というか常識まで、作られてしまう。

 立場は逆になりますが、先日もテレビを見ていたら、隣のK国の大学生たちが、こう言ってい
ました。

 「私たちは、自由です。平等です。今は経済的に苦しいときですが、すばらしい国に生まれ
て、幸福です」と。

 本気でそう思っているのか、それとも、何かの圧力があって、そう言わせられているのかは知
りませんが、そのときも、やはり、ウーンと、考えさせられてしまいました。

 そこで、改めて平等論です。
 
●平等

 「能力の差」を認めるのが、平等なのか。「能力の差」をわかりにくくするのが、平等なのか。

 しかしこの問題は、すべての教師が、学校という教育現場で、日夜悩んでいることでもあるよ
うです。

 能力があり、勉強ができる子どもについては、もっと伸ばしてやりたいと考える。しかしその一
方で、勉強が苦手で、できない子どもについては、できるだけ本人が、それを苦しまないように
してあげたいと考える。

 能力のある子どもについては、伸ばしてあげるのが、平等。能力のない子どもについては、
できるだけ本人がキズつかないようにしてあげるのが、平等、と。

 具体的には、私のばあいは、能力のある子どもは、どんどんと飛び級をさせています。本人
の知的好奇心を、満足させてあげる。(決して、エリート意識をもたせるということではありませ
ん。中には、不必要なエリート意識をもってしまう子どもも、いるにはいます。勉強ができない仲
間をバカにしたりする、など。)

 そして勉強ができなくて苦しんでいる子どもには、復習を中心とした学習に切りかえる。ときに
励まし、ときにほめ、ときになぐさめてあげたりする。

 日本の教育法がよいとか、アメリカの教育法がよいとかいうのではないですね。教育を支え
る背景そのものが、ちがいます。

 日本では、学歴が、ものをいう。最近でこそ、かなり様子が変ってきましたが、それでもものを
いいます。こうした学歴を、会社を定年退職してからも、ぶらさげていばっている人は、いくらで
もいます。

 一方、アメリカでは、学歴というよりも、プロ根性。プロ意識。大学生でも、学歴をもつために
勉強するというよりは、その道のプロになるために勉強するという意識が強い……?

 昨年も、アメリカの大学を訪れた、東大のある教授が、こう言って驚いていました。

 「休み時間になると、学生たちが列をつくって、教授室の前に並ぶんですね。みな、質問だ
の、相談だのを、教授にするためです。日本では見たことがない光景だけに、驚きました」と。

 勉強する意識というか、目的そのものがちがう。だから当然のことながら、「平等」に対する考
え方も、ちがいます。それにつけ加えるなら、平等であるから、よいということにもならないので
はないでしょうか。

 みんながリーダーになっても困るし、かたやみんなが、従属者になっても、困る。社会をつくる
ためには、たがいの役割をそれぞれが自覚し、ある種の調和を保たねばならなりません。それ
にだれしも、リーダーになることを望んでいるわけではない。またリーダーになったからといっ
て、幸福になれるというものでもないですし……。

 ただ親の心としては、こういうことは言えます。

 自分の子どもが優秀(?)であるときには、アメリカ型の平等のほうが、よいと考える。一方、
自分の子どもがそうでない(?)ときは、日本型の平等のほうが、よいと考える。このことは、子
どもの自身にとっても、そうではないでしょうか。

 自分の能力を伸ばしきれず悶々としている子どもは、いくらでもいます。そういう子どもにとっ
ては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だらけです。

 一方、がんばってもがんばっても、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもも、
いくらでもいます。そういう子どもにとっては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だ
らけです。

 そこそこにふつうの子ども(?)だけが、そこそこに満足する。それが日本のでいう「コース」の
本質ではないかと、私は思っています。もちろんその背景には、日本人独得の集団意識、さら
には、長くつづいた封建時代とそれにつづく、学歴社会があります。

 日本人は、みなとちがったことをすることを、極端に恐れます。あるいは自分自身も、自分と
ちがったことをしている人を、排斥しようとしたりします。こうした意識が、コース意識となってい
るわけです。

●これからの日本

 ご指摘のように、日本は、今、多くの問題をかかえています。なおすべきところも多いと思い
ます。

 アメリカも、そうです。アメリカの教育が、すべてよいわけではありません。アメリカはアメリカ
で、多くの問題をかかえています。

 しかし日本にせよ、アメリカにせよ、教育の原点は、一つです。子どものために、子どもの立
場で、子どもの未来を考えて、組みたてる、です。そのためにどうあるべきかを考えます。

 子どもを決して、国家の道具にしたり、国家につごうのよいように、作ってはいけないというこ
とです。国がどうあるべきかは、子どもたちが、将来、子どもたち自身が決めることです。また
そういう「自由」は、最後の「砦(とりで)」として残しておいてあげる。それが子どもを育てる私た
ちの責務であるように思います。

 そういう点では、今の日本の教育には、改善すべき点は、多いと思います。が、先にも書い
たように、日本に生まれ、日本で育っていると、それがわからない。が、アメリカの教育をのぞ
いてみると、それがわかる。そういう意味で、SKさんからいただきました情報は、本当に役に
たちました。ありがとうございました。

 これからもよろしくご指導ください。重ねて、お礼申しあげます。
(はやし浩司 アメリカの学校 アメリカ 小学校)
(040601)


【KSさんからの追伸】

はやし先生

KSです。いろいろ、こちらも考える機会をいただいて、
また、自分の経験してきた学校生活を整理することも
できまして、感謝しております。

さて、どうぞ、マガジンに掲載してください。また
一緒に考えてくれるリーダーが、ふえてくれるのを
楽しみにしております。

【はやし浩司よりKSさんへ(2)】

 昨夜、ビデオショップの宣伝につられて、『Kxxx Bxxx』という、和製、アメリカ映画を見まし
た。

一人の若いアメリカ人女性が、自分の夫や子どもを殺されたことを復讐するため、単身、日本
へ乗りこんできて、日本刀で、バサバサとギャングを切りまくるという映画です。

 評価はいろいろあるでしょうが、私にとっては、見るに耐えないというか、ダ作の中でも、超ダ
作。何とか批評をしたいと思って、ほとんど終わりまで見ましたが、最後は、あきれて、カセット
を取りだしてしまいました。

 突発的にキレて、相手のクビを切り落とすシーンなどもありましたが、娯楽と言うよりは、意味
のない、サツバツとした殺戮(さつりく)映画。おまけに構成は、バラバラ。

 おかしな理由づけのために、4年前のシーンに、突然もどったり。冒頭の二人の女性の格闘
シーンの最中では、子どもが学校から帰ってきて、格闘は中断。そのあと、結局は、その子ど
もの前で、母親をナイフで、刺し殺してしまったり……。

 まあ、はっきり言って、メチャメチャ。

 私は、その映画を見ながら、「日本の映画も、この程度なのかな」と思ってみたり、「これで完
全に、韓国映画、インド映画に敗れた」と思いました。あるいは、「どういう人たちが、こんな映
画をおもしろいと思って見るのかなあ?」とも。

 そう、韓国映画の充実ぶりは、すごいですね。あちこちの大学にも、演劇科があり、いわゆる
アメリカ流の(自然な演技)を、指導しています。

 かたや日本は、どうか? 一部の文化的権威者(たいていは、マスコミで売れている著名人)
が、頂点に君臨し、「これが映画です」というような映画ばかり作っている。この「Kxxx Bxxx」
も、その一つかもしれません。

この映画は、まさに日本の(映画文化)を、象徴していると思いませんか。

 いまだに、日本を、外国から見ると、「奇異な国」という感じがします。「どこか、おかしい」「ど
こか、ふつうでない」という感じです。外国から見ると、どうもわけがわからない。日本人の表情
が見えてこないというか、人間性が伝わってこないというか……。

 その(おかしさ)(ふつうでなさ)に、いつ私たち日本人が気づくかということです。でないと、い
つまでたっても、日本人は、「異質な民族」として、世界のスミに追いやられてしまうのではない
でしょうか。

 「Kxxx Bxxx」を見ていて、それを強く感じました。

【追伸】

●飛び級について

私は、私の生徒について、よく飛び級をさせる。子ども本人に、その能力があり、やる気があ
り、そのとき、どんどん伸びている状態のときは、飛び級をさせる。

 今までに、小学5年生の子ども(OI君)を、高校1年生のクラスで教えたことがある。小学4年
生子ども(NK君)を、中学3年生のクラスで教えたこともある。現在の今でも、2〜4年、飛び級
している子どもは、10人近くいる。

 その飛び級をさせるとき、いつも悩むのは、その子どもの能力というより、つぎの2点である。

(1)精神力は、じゅうぶんあるか?
(2)人格は、どうか?

 飛び級というのは、子ども自身が納得していないばあいは、してはいけない。子ども自身が、
それを望んでいれば、よし。そうでなければ、飛び級しても、長つづきしない。私や親だけの意
向で決めてはいけないということ。

 子ども自身が納得しているばあいには、それが精神力となって発揮される。

 反対に、精神力がじゅうぶんでないと、何かのことで、つまずいたようなとき、それが挫折感と
なって、子どもにはねかえってくる。

 飛び級のこわいところは、ここにある。

 飛び級したあと、学力の伸びが停滞するときがある。そういうとき、教える側は、「またもとの
学年にもどしたい」と考える。しかしもどすのは、簡単ではない。親が、猛烈に反発する。子ども
自身も、大きく、キズつく。

 だから精神力がじゅうぶんでない子どもは、安易に飛び級させてはいけない。

 つぎに飛び級をさせると、中には、おかしなエリート意識をもつ子どもがいる。エリート意識を
もつ一方で、おかしな優越感をもつ。そしてほかの子どもをバカにしたり、軽んじたりする。

 そういう子どもに接すると、人間的な嫌悪感を覚える。で、私はそういう子どもの、横柄な態
度をいましめるのだが、それで自分を改める子どもは、まず、いない。そのときは、「ごめん」と
か、「わかった」とか言うが、またしばらくすると、「お前は、ぼくより年上なのに、こんなこともで
きないのか! バカだなあ」などと、平気で言ったりする。

 「勉強さえできれば、優秀」と思いこんでいる子どもについては、いくら勉強がよくできても、そ
んなわけで、飛び級させることに、どうしても慎重にならざるをえない。


●子どもの問題・・・子どもに関する問題 ●親子の問題・・・親子に関する問題
●家庭の問題・・・夫婦家族に関する問題 ●その他・・・その他の問題


情報・画像の出展:はやし浩司先生

※このページの文章・及び画像の著作権は「はやし浩司」様が保有しています。
当サイトでは「はやし浩司」様のご厚意により許可を得て掲載させていただいております。


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