子どもとの不協和音

 

適切な幼児教育は後の
人間形成において大変重
要であると考えています
が注意していただきたい
ことがあります。
幼児教育は完璧な育児や
教育を推奨するものでは
ないということです。


 ・愛情が第一を忘れない
 ・他の子どもと比較をしない
 ・完璧主義にならない
 ・結果を期待しすぎない
 ・ゆったりとした心を持つ
 子どもへの過剰な期待は
 親子共に大きなストレス
 になる可能性があります。
 ゆったりと構え、少しくら
 い上手くいかなくても
 「まぁ、いっか。」
 位に考えられることが幼
 児教育を続けられるポイ
 ントになります。 

子どもとの不協和音 ・幼児教育悩み相談Q&A

はやし浩司先生●【自分をさらけ出して生きる】



●ある母親からの相談より

++++++++++++++++++

子どもとの不協和音。
子どもに気をつかい、
思ったことを言うこともできず、
毎日、悶々としているという。

++++++++++++++++++

【Fさんより、はやし浩司へ(1)】

掲示板に書く勇気がありませんでした。何度もすみません。読んでいただくだけで。

私が今までやっていたことは、ほとんど虐待でした。手をあげたことも何度もあります。感情に
まかせて怒鳴るなんてことは、しょっちゅうでした。

ヒステリックに泣いたりしました。夫はそこまで私がしているとは、思ってないようです。

学校ではあまり目立たないほうで、問題なく見える息子。このところとにかく物事の負の部分し
か見ない感じで、習い事などでも、楽しかったことより、いやだったことを口にして、悪態ばかり
つきます。

学校も習い事もすべて嫌だ、やめたいと、今夜も言っていました。それをずっと優しく聞き出し
ていたのは夫です。先日、夫に初めて激しく怒られてから、息子は、特にわがまま、無理難題
を、夫に対して言うようになりました。次から次へ、といった感じです。

あまりのことに夫は病院へ連れていった方がいいのかなと思っているようです。しかし異常な
のは私。外ヅラだけがよく、ウソばかりついています。そのため子どもをドラ息子にしてしまった
私。

息子が万引きをしたのは、私への罰の始まりかもしれません。これ以上酷い状態にならないよ
うに、こんな私でもできることはあるのか。息子を愛してきたという自信がもてないでいます。本
当の自分もよくわかりません。


【Fさんより、はやし浩司へ(2)】

 掲示板はやはり落ち着かなくて、こちらに書くことお許しください。いただきましたご助言を胸
に刻んで、2週間過ごしてきました。自分との戦いは、始まったばかりなのに不安です。

まず心配なのが、子どもの様子です。習い事へ、三つ通っているのですが、それには、行かな
い、と言っています。

遅く寝て、朝、早く起きる、夕食後の風呂にはじまって、就寝までが、なかなかうまくいきませ
ん。

お父さんがかってくれた、N社のゲーム機器で、毎日、ゲーム三昧です。

その後、万引きはしていないようです。(先週私の財布から抜いたお金で、内緒で買い物はし
たようですが……。) 

怒りやすく、ワガママを言い出すと、あとへひかない。たいていお父さんがいる時ですが、ダダ
こねがひどい。

たとえばお父さんに、「会社を休んで欲しい、ゲームを買って」「学校がいやだ」と、強く言い出
すようになりました。

以前と変わらず、体をゆだねて、甘えてくる時もあり、私(達)を避けるようなことはありません。
ただ、夫がいる時は、以前と明らかに違う感じです。

今夜も夫に、「会社を休んで欲しい」とぐずぐずと泣き、私が抱きしめてとんとんして寝かしつけ
ました。三人でいると何かまた言い出すのではと、なんだか子どもの心を探るような雰囲気に
なってしまいます。

私のせいだとわかっていても、その私を責めもしない夫に本当に申し訳ない気持ちです。子ど
もがそこに「いる」だけでいいと、本当に心から思える時もある反面、私は結局夫にも「すべて
をさらけだし」をしていないように思います。もちろん子どもにも、です。

うそつきの私が、このままではどんどん悪い方向にいくのではと、心配で、胸が塞がったりしま
す。一日中とも言えるゲームの電子音を聞きながら、苦悩しています。

ご助言があれば、いただきたく存じます。お時間のない中、長々と失礼しました。

 
【はやし浩司より、Fさんへ】

 Fさんは、いわゆる「気負い先行型ママ」ということになります。「いい母親でいよう」「いい家庭
を作ろう」という気負いばかりが強くて、それで結果として、自分で自分を苦しめてしまっていま
す。

 息子さんについて言えば、親意識過剰というか、「いい子にしよう」という意識が、これまた強
すぎるように感じます。加えて、心配過剰、さらには育児ノイローゼ気味(?)。

 前にも書きましたが、この時期の子どもの万引き、盗みは、珍しくもなんともありません。一
応、言うべきことは言いながらも、あとは、『許して、忘れる』です。あまりおおげさに考えないこ
と!

 おけいこごとについても、そうです。いちいち子どもの機嫌をうかがって、子どもの言うこと
に、振りまわされてはいけません。無視すべきことは、無視。「そうね、たいへんね」と聞き役に
回って、それでおしまいにします。これを「ガス抜き」と、私たちは呼んでいます。

 子どもが、グチを言ったら、グチは聞いてあげれば、それでよいのです。

 そしてここが重要ですが、どうしてあなたは、子どもに嫌われるのを、それほどまでに恐れて
いるのですか? 嫌われてもいいと、もうそろそろ、居直りなさい。どうせ、嫌われるのですから
……。結論を先に言えば、あなた自身が、たいへん依存性の強い方だと思います。子育てをし
ながら、いつも無意識なまま、何かの見返りを求めている。それが回り回って、今の育児姿勢
になっていると考えられます。

 ゲームの音がうるさかったら、「うるさいわねえ」と言えばよいのです。それで子どもに嫌われ
ても、遠慮することはありません。つまりこれが(心のさらけ出し)ということになります。

 ただ、お子さんは、あなたに絶対的な安心感を求めています。が、それを得られないでいる
……。そういう状態です。あなた自身もわかっているように、あなたの育児姿勢には、一貫性
がありません。

 そこでこうします。『求めてきたときが、与えどき』と。

 子どもがあなたにスキンシップなり、甘えるなり、何かの愛着行動を示したら、すかさず、(こ
こが重要です。「すかさず」です)、子どもを抱きかかえてあげてください。そして力いっぱい、抱
いてあげてください。

 たいていものの数分もすると、子どものほうから体を放そうとしますので、そっと、水の中に魚
を逃がす要領で、子どもの体を放します。

 決して、「あとでね」とか、「今、忙しい」などと、言ってはいけません。「すかさず」そうします。

 子どもの心は、それで安定するはずです。「会社を休んでほしい」と、父親に甘えたときも、そ
うです。その旨、お父さん、つまりあなたの夫に、よく言い伝えておいてください。ぐいと抱いて
あげるだけで、じゅうぶんです。理由を言ったり、弁解したりする必要はありません。

 ホント、外づらをよくするのも、疲れますね。わかります、その気持ち!

 私も、若いころ、それなりの教師に見られたくて、苦労しました。しかしある日、気がつきまし
た。クソ食らえ!、と。

 それからは気が楽になりました。あるがままの自分を、さらけ出しながら生きるようになりまし
た。Fさんにも、今すぐは無理かもしれませんが、少しずつ練習すれば、それができるようにな
りますよ。

 ためしに、あなたの夫に向かって、(YES)(NO)をはっきりと言ってみては、どうでしょうか。
いやだったら、いやだと言えばよいのです。してほしかったら、してほしいと言えばよいのです。

 「あんた、今夜、セックスでもする?」「xxxxでもなめてあげようか!」と。(少し、ショックでした
か?)

 ハハハ。そういう形で、自分をさらけ出していきます。あとは、練習です。つまりね、あなたが
心を閉ざしていて、どうして子どもが、あなたに心を開くことができるでしょうか? 

 お子さんの年齢からして、もう、何でも、あなたの思い通りにはならないということを、肝に銘
じてください。夜更かしをして、翌朝困るのは、息子さんです。ですから、こまごまとしたことは、
あまり気にしないで、子どもに任せなさい。

 原因をたどれば、つまりなぜあなたが今、そうなのかという原因をたどれば、あなた自身の幼
児期から子ども時代に、問題があったとみます。権威主義的な親をもち、家父長意識の強い
家庭環境の中で、あなた自身が、いつも、(いい子)を演じていた。

 さらに言えば、あなたとあなたの父親との関係が、あまりうまくいっていなかったことも考えら
れます。そのため、(男)の扱い方が、わからないまま、今日に至っている……。

 一度、自分の過去を冷静に見つめてみる必要があります。で、この問題は、そうした自分の
過去を客観的に見ることができるようになっただけでも、問題の大半は解決したとみます。勇
気を出して、自分の過去と対峙してみてください。

 もっと肩の力を抜きなさい。カエルの子どもはカエル(失礼!)。それ以上高望みしないこと。
過剰に、子どもに期待をしないこと。「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめなさい! こ
の世界には、『あきらめは、悟りの境地』という格言があります。私が考えた格言ですが、あき
らめたとたん、あなたも、そして息子さんも、表情が明るくなるはずです。

 「こんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、逆効果ですよ!

 そしてあなたは、もう子どものことは忘れて、自分のしたいことをしなさい。息子さんは、すで
に親離れを始めていますよ。年齢的にも、その時期に来ています。この時期、親はさみしい思
いをするかもしれませんが、それに耐えるのも、親の務め。

 あとはCA、MG、Kの多い食生活に切り替えてみてください。海産物中心の献立にします。そ
れでも、(こだわり)が消えないようでしたら、一度、心療内科のドクターに相談なさるとよいでし
ょう。今では、すぐれた薬があります。

 あまりくよくよしないこと。少なくとも、万引きの問題は解決したのですから……。つぎからつぎ
へと、あれこれと問題をさがしだし、悩まないこと。「前よりもよくなった」ことだけを実ながら、あ
とは、前向きに生きていきます。

 では、また。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
の悩み 育児ノイローゼ 子どもの問題 育児問題)

【補記】

●自分をさらけ出して生きる

++++++++++++++++++++

自分をさらけ出して生きるということは、
口で言うほど、簡単なことではない。

そのことは、子どもの世界を見ればわかる。

子どもの中にも、あるがままの自分を、
すなおにさらけ出しながら生きている子どももいれば、
そうでない子どももいる。

いつも他人の目を気にしながら、いい子ぶる
タイプの子どもである。

このタイプの子どもは、いつも自分を飾る。
ごまかす。作る。偽る。

だから本人も疲れるが、教える側も疲れる。
何を考えているのか、何を望んでいるのか、
それが正確にわからないから、ときとして、
どう教えたらよいのかわからなくなる。

そこで私の教室では、年中児で入ってきた
子どもについては、とにかく、大声で、
声を出させ、大声で笑わせるという指導を
大切にしている。

心の中のものを、すべて吐き出させるように
している。

しかし本当の問題は、母親にある。

母親の中にも、自分を飾る、ごまかす、作る、
偽る人は少なくない。

が、母親のばあい、問題は、本人だけにとどまらない。
その影響は、子どもに現れる。

もちろん夫婦関係も、ギクシャクしてくる。

だから……。

もし、あなたが、ここでいう、心のさらけ出しが
苦手のタイプの人なら、思い切って、
心を開いてみよう。

心を開いて、自分の思いや願いを、空に
向かって、解き放ってみよう。

方法は、簡単。

まず、YES、NOを、はっきりと言ってみよう。

したかったら、YES!
したくなかったら、NO!

自分をすなおに表現してみよう。

自分を飾らないで、
自分をごまかさないで、
自分を作らないで、
自分を偽らないで……。

心を解き放てば、体は、あとからついてくる。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の原点になっている、核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをい
かに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、世代を経て、引き継が
れる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)


 この原稿を書いてから、ずいぶんになる。「交番へ届けます」と答えた子どもは、すでに成人
になり、結婚もした。以来、会ったことはないので、今ごろは、どういう考え方をしているか知ら
ない。

 しかしまじめな、いい生徒だった。それは認める。だから今、こうしてそのときのことを思い出
してみると、そういう生徒をからかったわたしの方がまちがっていたのかもしれない。「交番へ
届けます」と彼が言ったとき、私もすなおに、「そうだね。それがいいね」と言うべきだった。それ
で終わるべきだった。

 多かれ少なかれ、私たちはみな、仮面をかぶって生きている。もしみながみな、あるがままの
(私)をさらけ出して生きたら、それこそ、この社会は、動物の世界のようになってしまう。私は
私で、あなたはあなたで、いい人ぶりながら、生きていく。たとえそれが仮面であるとわかって
いても、だまされたフリをして、相手に合わせて生きていく。

 それでよいのかもしれない。

 ただこれだけは、書いておきたい。

 自由とは、自分をさらけ出して生きること。つまり自分をさらけ出して生きることを、自由とい
う。

●虚栄

 「見栄。うわべだけの栄誉」「外見ばかり飾って、実質以上に見せること」を、「虚栄」という(日
本語大辞典)。

 英語では、「vanity」という。

 しかし、日本語で、「虚栄」というときと、英語で、「vanity」というときとでは、感じ方が、ちが
う。なぜだろう?

 ひとつには、そこに宗教的意味がこめられること。キリスト教では、「vanity」を、人間がもつ
原罪のひとつとして、それを強く戒めている。

 小学館の(ランダム・ハウス・英和辞典)によれば、こうある。

 Vanity……(1)うぬぼれ、慢心、虚栄心、(2)うぬぼれの表出、(3)ひどく自慢する、(4)無
価値、つまらなさ、(5)価値のないもの、つまらないもの、と。

 だから日本では、「お前は虚栄心が強い」と言われても、それほど、気にならないが、英語
で、「vanity」と言われたれたりすると、ぞっとする。何か、とんでもないまちがいを犯したかのよ
うにさえ思うこともある。

 そこで改めて考えてみる。「虚栄とは何か?」と。

 「飾る」といっても、それを意識している間は、虚栄ではない。たとえば美しいネックレスを買
い、それで身を飾るというのは、虚栄ではない。

 しかしそのネックレスを身につけ、さも、私は金持ちですと言わんばかりに振る舞うのは、虚
栄ということになる。さらに、その虚栄を使って、相手をだますようなことをすれば、詐欺(さぎ)
ということになる。

 が、虚栄の恐ろしさは、ここでとどまらない。虚栄が長くつづくと、「私」そのものが、なくなる。
「私」がないということは、その時点で、自分の人生を、カットすることになる。もっと言えば、
「私」でない、私に、操り人形となって、操られるだけ。そういう人は、少なくない。

 Nさん(女性)は、今年、80歳を過ぎた。そのNさんは、買い物に行くとき、サイフの中に、札
をいっぱい詰めていくという。しかも、一番前と一番うしろに、1万円札。その間に、1000円札
を詰めていくという。

 そしてレジなどで、お金を出すときは、レジの女性に、これみよがしに、札束を見せて、お金
を払うという。

 それを見ていた、実の娘(60歳くらい)は、こう言った。「うちの母は、昔から、そういう女性で
す。本当は、貧乏なのに、外では、いつも、金持ち風に振る舞うのです」と。

 そういう話を聞くと、私は、すぐ、「80歳も過ぎているのにねエ〜?」と思ってしまう。あわれと
いうより、こっけいですら、ある。虚栄に毒されると、人は、そこまでするようになる。しかも80
歳を過ぎても、それをつづける。

 自分がない人というのは、そういう人のことをいう。言いかえると、「生きる」ということは、その
時点、時点で、「私」をつかみながら生きることをいう。それができない人は、生きていることに
は、ならない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、虚栄に毒されると、生きていると
いう実感をもてないまま、その日、その日を、ただ無益に過ごすことになる。

 あるがままに、自分を保ちながら、生きる。自分をさらけ出しながら、生きる。そういう生き方
を、「善」とするなら、虚栄に満ちた生き方は、「悪」ということになる。キリスト教のことは、よくわ
からないが、多分、そういう意味で、「虚栄」を、「vanity」と言うのではないか。

 一度、オーストラリアの友人に、問いあわせてみようと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虚栄
 vanity)

+++++++++++++++++

本音と建て前について書いた原稿を
いくつか添付します。

+++++++++++++++++

●本音と建て前

 「すなおな考え方」とは何か。五、六年も前のことだが、小学一年生の生活科のテストに、こ
んなのがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの絵の中
から、答を選んでください。

(4)そのままテレビを見ている絵。
(5)お母さんを手伝う絵。
(6)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子どもは、
(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、ひとりの母親がこ
う言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のまわりでウロウロされる
と、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽です」と。つまり建て前では、(2)
が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を出し
た。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテストでは、本
音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界

 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などというもの
は、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解を求めようと
する。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。が、それで終わるわ
けではない。

ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生が、「答のな
い問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「この世界ので
きごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解にこだわるのか」と笑
っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学だが、
T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしまった。この
状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分離方法
を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参考書もちこみ
OKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にするというもくろみがある。

当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話してくれ
た。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさがってくる。大切なの
は、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすか、です」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだろうか。
そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもたちにかぎらず、
私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろうか。私は子どもたち
の前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につながるものの考え方の、大きな
ヒントが隠されているような気がする。


●疲れる子どもたち

 本音と建て前。本当とウソ。正直とごまかし。今の子どもたちは、幼いときから、この二つを使
い分けることを教えられる。その結果、その両方を、うまく使い分けられる子どもほど、「学校」
という社会を、スイスイとうまく生きていかれる。そうでない子どもは、そうでない。

 もちろんだからといって、A君のように、拾ったお金を使ってよいというのではない。ないが、A
君のような生き方のほうがわかりやすい。子ども自身も疲れない。心もゆがまない。しかしB君
のような生き方をしていると、それだけで疲れてしまう。その結果、心がゆがむこともある。

 自分の内部に潜む誘惑に打ちかち、拾ったお金を交番へ届けるというのは、かなりむずかし
いことである。強い精神力と、それを支える道徳性が必要である。そしてその道徳性は、たえ
まない反省と思考によって、はぐくまれる。そこらの中学生くらいに、それができるわけがない。
私が「本当のことを言え!」と迫ったとき、もしB君がそれでも、「交番へ届ける!」と言ったら、
私はB君の道徳性を認める。しかしそれとて、私という「他人の目」を感じているから、そう言う
にすぎない。

 ……と書いて、実は、これは親たちの問題でもある。子育ての問題と言ってもよい。たとえば
ある親が自分の子どもに向かって、「学校では、友だちと仲よくするのですよ」と言ったとする。
しかしこの言い方は、「拾ったお金は、交番へ届けるのですよ」という言い方と、どこも違わな
い。

 が、その親が、子どもがもちかえったテストを見ながら、「何だ、この点数は! あのC君は、
何点だった? もっと勉強しろ!」と言ったとする。これは母親の本音と考えてよい。親は、こう
言っているのだ。「C君は、あなたの敵だ。そのC君を負かせ」と。

 かわいそうなのは、そう言われた子どものほうである。一方で、「仲よくしなさい」と言われ、他
方で、「敵と思え」と言われる。拾ったサイフにたとえるなら、一方で、「交番へ届けろ」と言わ
れ、他方で、「拾ったお金は自分のものにしろ」と言われるのに似ている。「同じ」とは言わない
が、「似ている」。

 こうした相反する矛盾の中で、要領のよい子どもは、その二つを、うまく使い分ける。が、そう
でない子どもは、そうでない。そして底なしの自己矛盾の世界へと落ちていく……。しかしそれ
はきわめて不安定な世界でもある。子どもによっては、その不安定さに耐えかねて、非行に走
ったり、引きこもったり、あるいは家庭内暴力を起こしたりする。そこまで進まなくても、自分の
中で葛藤(かっとう)する子どもは、いくらでもいる。

 それはさておき、要領の悪い子どもは、この段階で二つの道に分かれる。徹底して、よい子
ぶるか、それとも居直るか、のどちらかである。冒頭にあげた、B君が、そのよい子ぶっている
子どもということになる。それに対して、A君は居なおっているということになる。

●本音で生きる

 子どもの世界を見ていると、それはそのまま、私たちおとなの問題であることがわかるときが
ある。この問題もそうだ。私たちおとなも、昔は、子どもだった。そしてほとんどの人は、その子
ども時代の自分を、みな、そのまま引きずっている。たとえばあなた自身は、どうだったか。さ
らには、あなた自身はどうかということになる。

「今」という時点で考えてみよう。今、あなたは本音で生きているだろうか。あなたが妻なら、夫
や子どもに対して、本音で生きているだろうか。それとも、あなたは、ここでいうような「いい子」
ぶってはいないだろうか。

 が、これだけは言える。もしあなたが他人との世界の中で、「疲れ」を覚えるようなら、あなた
は、いつも心のどこかで自分をごまかして生きていないかを、少しだけ反省してみるとよい。あ
なたのそうした気負いは、あなた自身を疲れさせるだけはなく、あなたの夫や、子どもまでも疲
れさせてしまう。要は、ありのままの自分を生きるということ。飾ることはない。気負うことはな
い。ごまかすこはない。ありのままでよい。

 一〇万円が入ったサイフを拾い、お金がほしいと思えば、そのまま中身を抜いて、サイフだ
けを捨てればよい。が、もしそれを「よし」としないのなら、交番へ届ければよい。そしてそのサ
イフのことは忘れる。自分にすなおに生きるというのは、そういう意味で、わかりやすい人生を
送ることを意味する。

 そうそう、先のB君も、私が「正直に言え」と迫ると、最後にこう言った。「やっぱり、先生、お金
がほしいから、もらってしまうよ」と。私はその意見を聞いて、安心した。B君には、まだ自分を
取り戻す力が残っていた。すなおな気持ちが、残っていた。私は最後に、B君にこう言った。

 「自分に無理をしてはいけない。先生は、今でも、サイフを拾うたびに、迷う。しかし今は、そう
いうふうに迷う自分がいやだから、何も考えないで、近くに交番があれば、交番に届けるように
している。先日は、コンビニの前で拾ったから、コンビニに届けた。よいことをしているとか、悪
いことをしているとか、そんなふうに考える必要もない。要するに気負わないこと。

 しかしね、誠実に生きることは、とても気持ちがよいことだよ。ウソだと思ったら、一度、拾っ
たお金を交番へ届けてみてごらん。そのあと、ものすごく、気持ちがよくなる。その気持ちのよ
さは、お金では買えないよ」と。


●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から二人の女
子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。する
とその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていましたが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、10
メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変化に
気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意見を戦
わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」という私。この二
人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれない。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っている
私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだな。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分だけ、
いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言った。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を決め
た。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例としては、
本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、うまく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こうした精
神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、それだけで二重
人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のようなものだ
った。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、「無視しろ」と
いう私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスをとっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけていたか
もしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたかもしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、正義感も
あって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職業がら、無視で
きる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできなかった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに対立して
いる状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経(抑制命
令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心の状態
を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断する感覚を、
私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた人を、常識豊か
な人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。

【虚栄について、B君からの返事】

In Australia being vane is not well liked. I would not say it is very 
bad though. We are more inclined to think someone who is vane is being 
rather silly.

オーストラリアでは、(飾る)ことは、それほど嫌われていない。そんなに悪いことだとは思わな
い。自分を飾る人を見ると、ぼくたちは、愚かな人だなと思うが、その程度。

Being 2 faced is another matter. That can get you despised. 

2つの顔をもつというのは、別。それは軽蔑されるべきことだ。

However there different levels of being 2 faced.

しかし2つの顔をもつといっても、程度の問題もある。

For instance if I am nice and smiling to someone's face but are nasty, 
uncomplimentary or sabotage them "behind their back", I will be 
despised by people who see this.

たとえば、ぼくが、だれかいやなやつに対して、よくしながら、そして微笑みながら、その裏で、
その人の悪口を言ったりすれば、ぼくはそれを知った人に軽蔑されるだろう。

On the other hand, if I really don't like someone but I am polite to 
them in public, this will be seen as being diplomatic. That is people 
who see this will understand and see it as not causing unnecessary 
social friction.

一方、本当はその人が嫌いでも、公(おおやけ)の場所で、その人にていねいにしたとしても、
それは外交的なものと受けとめられるだろう。それを見た人も、そうであると理解し、不要な社
会的摩擦を起こさないためのものと、わかってくれるだろう。

So maybe Australia is not that much different to Japan.

そんなわけで、多分、オーストラリア人も、日本とそんなにちがわないと思う。

Cheers,

バイ

Bより

●子どもの問題・・・子どもに関する問題 ●親子の問題・・・親子に関する問題
●家庭の問題・・・夫婦家族に関する問題 ●その他・・・その他の問題


情報・画像の出展:はやし浩司先生

※このページの文章・及び画像の著作権は「はやし浩司」様が保有しています。
当サイトでは「はやし浩司」様のご厚意により許可を得て掲載させていただいております。

このページのトップへ

Yahoo!ブックマークに登録 このエントリーをはてなブックマークに追加 Clip to Evernote